ソクラテスの弁明に見る「あなたの道」の歩み方
大きな牛の周りをブンブン飛び回ってチクリと刺す「あぶ」。
とりわけ名声があったり「賢人」と呼ばれていた人たちにとっては、ソクラテスというあぶは叩き潰したくてしょうがなかったようです。
ソクラテスが被告となったアテナイ(ギリシャのアテネ)の法廷で、みずからを弁明した「ソクラテスの弁明」。
正直に言って、わたしも今「あぶ」に刺されているような気持ちです。
恥ずかしい気持ちがありながら、いまなお問いかける「善く生きるとは?」を「ソクラテスの弁明」に見ていきましょう。
参照は岩波文庫版の「ソクラテスの弁明」(久保勉訳)に拠っています。
目次
- ○ ソクラテスの人となりと人生
- ○ ソクラテスが糾弾された理由
- ○ ソクラテスの真骨頂
- ○ 裁判の結果
- ○ さいごに~ソクラテスとわたし
- ・執筆者紹介
- ○ おまけ
ソクラテスの人となりと人生
ソクラテス。
この名前を聞くだけで、しびれるものがあります。
哲学者の名前としては、世界でもっとも有名といってもいいですよね。
ソクラテスは古代ギリシャのアテナイ、今のギリシャのアテネに生まれ、そしてアテナイで亡くなりました。
紀元前470年頃~紀元前399年ですね、享年71歳くらいです。
ソクラテスが活躍したアテナイは、直接民主制の国で、市民権をもつ市民による直接投票によって政治が決められ、裁判が開かれていました。
軍事も、市民の義務のひとつで、いざ戦争がおこるとひとりひとりが兵士となって、戦場へ赴いたり、要地を守備したりしていました。
ソクラテスは哲学者として知られていて、街中を歩きまわっては哲学問答をしていたようなイメージがあります。実際、大方その通りだったようですが、まったく働いていなかったというわけでもなく、職業は石工だったと伝えられています。
家族もいます。
子供は3人。法廷当時は、ひとりが青年で二人はまだ子供であるとソクラテス自身が言っていますから、中年過ぎてから結婚したか子供が生まれたのでしょう。
妻はクサンチッペという名前で、夫であるソクラテスをなじって水をかけたりするような悪妻として知られていますが、まあソクラテス自身石工の仕事はそこそこに、哲学問答ばかりしていたそうですから、クサンチッペの方が普通といえば普通です。もっともソクラテス自身、そんなクサンチッペを嫌がるそぶりもなく、飄然と愛していたようです。
とはいっても市民の務めは立派に果たしてきた人で、戦場でも誰よりも勇敢で決して持ち場を逃げず死守してきたような「アテナイ市民」としての誇りを持っていた人でした。
そんなソクラテスですが、なぜ、世界一有名な哲学者になったのか?
最初の哲学者はタレスというミレトス(今のトルコ沿岸)にいた人ですが、ソクラテスの前にも有名な哲学者な何人もいます。
世界の根源は火であるといったアレクレイトス、原子論を語ったデモクリトス、三平方の定理でおなじみのピタゴラスなどなど、聞いたことある名前もあるかもしれません。
でもソクラテスがやっぱり有名なのは、なによりも、この「ソクラテスの弁明」によってです。
ソクラテスは当時から有名な哲学者。
そんな人が、自分自身市民のひとりであったそのアテナイで、アテナイ市民の投票によって「死刑」と決まったのです。
「自分もその一人であるアテナイ市民によって死刑にされた哲学者」
わたしたちに照らし合わせて言えば、日本を愛し日本国民としての立派な務めを果たしてきた人が、その日本国民によって死刑にされたのです。
しかもその法廷でのソクラテスの弁論模様が、プラトンによって事細かに記録されている。
それにより、わたしたちは約2400年前のソクラテスの「生の声」に接することができる。
わたしたちは、まさにソクラテスが生きて死を宣告されるまでの姿をソクラテスの言葉で知ることができます。
しかもその弁明が、いまなおわたしたちの肺腑にグサリと突き刺さるような内容なのです。
「ソクラテスの弁明」、ホントのこと言うと、今日は話そうかどうか迷ったのですね。
もうこれを書くこと自体、わたしがソクラテスに糾弾されているようで、胸が痛くて。
まあ、しかし、自分のこれからへの人生の銘として、備忘録としても記すことにします。
「ソクラテスの弁明」、それはどんな内容だったのでしょうか?
※写真はアテネの博物館で撮影したソクラテス
ソクラテスが糾弾された理由
そもそもなぜソクラテスは、糾弾され法廷で裁かれることになったのでしょうか?
「ソクラテスの弁明」によると、その訴状内容は、
「ソクラテスは不正を行ない、また無益なことに従事する、彼は地下ならびに天上の事象を探究し、悪事をまげて善事となし、かつ他人にもこれらの事を教授するが故に。」
でした。
訴状をソクラテスが解釈したところによると、「ソクラテスは不正をして悪事をはたらき、また悪事や嘘八百や超常現象を教えてお金までせしめていたから」という理由で訴えられたと話しています。
実際そうみる人も中にはいたようで、同時代人の喜劇役者アリストファネスはそんなソクラテスを嘲る調子で「超人間的なことを触れ回っているおかしなやつ」として描いています。
しかしこの内容は即座に反論され否定されました。
なぜなら、ソクラテスは実際そんなことは全く行っていなかったからです。
むしろ、「徳(アレテー)を教えるような技術があったら、僕もお金をもらえたのに、そんなものはもっていない」ということを話しています。(友成註:耳が痛い…)
また市民として義務を立派に果たしていたことは、法廷にいる市民裁判官も普段から知っており、この訴状内容に納得してソクラテスの反論を否定する人はだれもいませんでした。
しかしソクラテスはさらに問いかけます。
「じゃあ、なぜ、こんなに悪評が起ったのか?」
と。
ここでついにこれほどまでに敵意をもってなされた真の糾弾内容を話すことになります。
もっとも智慧のある人
ソクラテスは敵意を持たれる前から、哲学的な対話をして出会う人に影響を与えていました。「しびれエイ」とも呼ばれており、ソクラテスに接した人はまるで海にいるエイの尻尾に刺されたかのように、精神がしびれ生き方が変わるような体験をしていました。
「ソクラテスには一種の智慧がある」
そう言われていた人だったのです。
しかしソクラテス自身はといえば、自分自身をそうとは思っていませんでした。
むしろ、何も知らない自分なのに、どうしてわたしは智慧があると言われるのだ?
そう不思議に思ったソクラテスは友人と一緒にアテナイから約百キロ先の山中にあるデルフォイの神殿にいって、神託を受けることにしました。
当時の古代ギリシャでは神々の声は、リアルな声であり、真実を教えてくれると思われていました。デルフォイはそんなギリシャ人の聖地としてもっとも崇めれた場所でした。
ソクラテスはデルフォイの巫女に聞きます。
「わたし以上の賢者はいるか?」
すると巫女はこう答えました。
「ソクラテス以上の賢者はいない」
と。
ソクラテスは衝撃を受けました。
わたしが、なぜ、智慧があるとなぜか言われるから不思議におもって来て聞いてみたら、神にまでわたしが智慧があると言われる。しかも私以上の賢者はいない、と。
ソクラテスは心の底から、自分は何もしらない人だと思っていましたから、デルフォイの神は嘘を言っているのではないか?と思ったほどでした。しかし、神なるものが嘘をつくはずがない、真実しかかたらないはずだ。でも、自分にはどうしても信じられない。
そう思ったソクラテスは、「だったら、自分で確かめよう」と考えました。
アテナイにも賢人と呼ばれる人は何人もいる。だったらその人たちに聞いてみよう。それでわたしよりも知っていたら、もちろんその人はわたしよりも賢人だ。そうすれば、デルフォイの神託は、自分の解釈違いであり少なくとも自分を賢人と勘違いしてしまうことはない、と。そうして様々な賢人を訪ね歩き始めたのです。
ソクラテスは、賢人と呼ばれる人に対して、真や美や善など、徳(アレテー)と総称される人間が生きる上でもっとも大切なことについて尋ねていきました。
彼らはふだん、智慧ありそうに人に教え、語って、地位や名声を得ているのだからきっとしっているはずだ。むしろソクラテスは彼らに学びたいという思いで訪ねたのです。
しかし、何人かを訪ね歩くうちに、気づいたのです。
あれ、彼らは、結局に何もしらない、わかっていないぞ、と。
たしかに、はじめは知っているか風に話し出すのですが、問答を続けていくうちに窮してしまい、何もわかっていなかったことが露わになることばかりでした。
ソクラテスはそのあたりでようやく気づき始めたのです。
どうしてデルフォイの神託が、ソクラテスが最高の賢人だと告げたのかを。
いわゆる賢人と呼ばれた人たち、政治家、教師・学者、名声家、蓄財家等々は、本当は何も知らない、わかっていない。でも「自分は知っている、分かっている」と思っている。
しかしソクラテスはちがう。何も知らない、わかっていない。でも「自分は知らない、分かっていない」と知っている。
「自ら知らぬことを知っているとは思っていない限りにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っていると思われる。」
そうソクラテスは気づいたのです。
この問答訪問は、いわゆる賢人たちを怒らせました。
賢人たちは自分が賢いと思い、また他人から賢いと思われることで世の中を過ごしている人たちです。それをアイデンティティにもしている人たちです。
でもソクラテスに会うと「いや、あなたは何もわかっていなかった」と自分の無知や愚かさが露わになってしまいました。社会的な地位が高いだけに、もう面目まるつぶれ。
ソクラテスは大いに憎まれ、激しい敵意を向けられることになりました。
とはいっても、「自分の無知や愚かさが暴露されたから訴えた」とは恥ずかしくて言えません。だから「ソクラテスは怪しげな問答で青年を腐敗させるものである」と触れ回り、社会的に抹殺しようとしたのでした。
※写真は「デルフォイの神殿」の遺跡
ソクラテスの真骨頂
わたしはここまででも、すでに耳や胸が痛いです。
ソクラテスについて語っていますが、もしかしてソクラテスに「無知や愚かさ」を暴かれる側にいるのではないか?と。
わかっていないことをわかっていると言い、自分を大きく偉く見せているのではないかと。
あなたももしかして同じことを感じているかもしれませんね。
ソクラテスの問いは、人類が存在している限り、どの時代の人にもグサリとくる問いかけです。
むしろここまで聞いて、ほんのわずかでもグサリと来なかったとしたら…
もしかして「いわゆる賢人」の側に立っているのかもしれません。
ともあれ、わたしがソクラテスの真骨頂だと思ったのは、ここから先なのです。
もし、ここまでの話で終わっておけば、場合によっては、「権力者に立ち向かう個人」みたいな構図で受け取られかねません。強いものに立ち向かったから後世まで拍手喝采されたのだ。スカッとする!という受け取られ方です。
しかしソクラテスの意図はもちろんそこにはありません。
あくまでも真実はどうか、という一点に尽きます。
むしろ、ここから先の方が考えさせられる人もいるでしょう。
ソクラテスは、そんないわゆる地位の高い賢人だけではなく、一般のあらゆる人にまで確かめていったのです。
たとえば、詩人や芸術家。現代でも素敵な誌や芸術を想像する人は一種の尊敬をもって迎えられていますよね。地位や金銭を稼ぐ人もいますが、もしそうであってもなくても多くの詩人や芸術家は作品や美に忠実で道を究める。そしてわたしたちの知らないことを知っている。そんなイメージがあります。わたしも大好きですし、憧れもあります。
古代ギリシャももちろんそうでした。
古代ギリシャこそそうだったと言えるでしょう。
あの数々の美しい彫刻や、ホメロスやオデュッセウスなど叙事詩などをみたら、人類の宝を生み出してくれたことに感謝せざるをえません。
ソクラテスはそんな詩人や芸術家にまで、訪ね歩いていきました。
しかし、問答結果と言えば、先の結果と同じでした。
もちろん作品自体はすばらしいのですが、それは一種の自然的素質や神からの贈り物とししかいいようがない。
一方彼ら自身は智慧をもっていたとはいえなかったのです。本当はそうでもないのに「芸術という深淵にふれているからわたしたちは賢人だ、知っているのだ」と思っている点では、いわゆる先の賢人たちと同じであったのです。
最後に手工者を尋ねました。
地に足つけて実用のモノを作っているひとたち、わたしたちの多くがそうであるように、市井のビジネスマンや技術者と思えばいいかと思います。
彼らは確かに専門的な技術的な知識や技術を持っているという点ではソクラテスよりも賢かった。そしてその仕事から得られる経験や知恵もあるでしょう。しかし、やはり彼らも、前のいわゆる賢人や芸術家たちと一緒だったのです。
つまり自分の経験内で得たものをもって、すべてを知っていると思い込んでいました。
しかも、それが絶対正しいと思い込んでいる、つまり「謬見」がありますから、それ以上ものがよく見えてこず、その智慧にも暗影がさしている、といっています。
いわゆる仕事人や仕事ができる人たちにもありそうですよね。
(もちろん、ここでわたしも耳も胸も痛い。単に自分の仕事の経験で得ただけのことを、人生全部の真実だとして思ってしまっていることも…)
ソクラテスは地位、貧富、職業関係なく、真実の智慧とは?真実の徳(アレテー)とは?を探究していったのです。
ここで注釈をもう少しつけると、「徳(アレテー)」は、いわゆる「道徳」ではありません。
道徳というのは、その社会において守るべき規範、といったものです。
しかしソクラテスが探究していたのは、社会という枠ではなく「この世に在るものとして」の、もっとも大切なことは何か? という視点でした。
ですので、地位も貧富も職業も関係ないわけです、「この世に在るもの」として皆同じだから。
今ここも、十年後も百年後も千年後も、二千四百年後も、わたしたちが在る限り!
ソクラテスはそこしか考えていなかったのです。
ソクラテスが「神」と呼んだり「魂」と呼んだりしているのは、そういった視点での話をいいます。
ソクラテスは、
「わたしたちが生きるとは? よく生きるとは?」
それだけをまっすぐに問いかけ続けました。
あらゆる人たちを訪ね歩いて、ソクラテスはこういった結論に達しました。
「私はいずれを選ばんとするか、と。そこで私は、私自身と神託とに対して、自らあるがままにある方が私のために好い、と答えたのだった。」
※写真は、ソクラテスが問答したであろうアゴラ(市民広場)の遺跡
裁判の結果
アテナイのあらゆる人に問答していったソクラテスですから、逆に言えばいわゆる権力者だけでなく、あらゆる階層にソクラテスを憎み、敵意を持つ人ができていました。
弁明を聞いたあと判決になるのですが、501人の市民裁判員の投票の結果、わずか30票差で有罪と決まりました。
当時のアテナイでは、一回目の判決のあとも弁明の機会が設けられていまして、ソクラテスもさらに弁明を続けています。
それを聞くと、裁判員としてはたしかに有罪という判決は下したものの、死刑までは考えていなかったようです。
同じアテナイ市民ですし、ソクラテスは市民の義務をきちんと果たしてきたことは皆知っている。さらにソクラテスの弁明も、―わたしと同じように―、胸が痛んだ人もいたでしょうから、ある種の人情をもって「罰金刑」か「他国への追放令」くらいですまそうとしていました。
要は、「ソクラテスよ、これに懲りて、もうアテナイでそんな哲学問答をしてくれるな」というわけです。
ところがソクラテスはその判決を受けて弁明したことは、一言でいえば、(間違ってるかもしれませんが、雰囲気の想像と、わたしの感情を込めて)
「勘違いするな、わたしは死なぞおそれていない。そんな判決ごときでわたしのこの真実の智慧への探究をやめるものか。」
そう言ったのですね。
これで、「人情的に」判断していたひとたちの気持ちが硬化しました。
2回目の判決は、さらに80票の差がつき、結果、361票対140票で「死刑」と決まったのでした。
その後、牢屋で過ごし毒杯を飲んで死ぬまでのソクラテスの姿は、同じ岩波文庫版の「クリトン」に描かれています。
「クリトン」についても、またどこかでお話する機会もあるかもしれません。
「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスのこんな言葉で締めくくられています。
「もう去るべき時が来たー私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我らの両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がいない。」
※写真はアクロポリスの丘から眺めたアテネの風景
さいごに~ソクラテスとわたし
ソクラテス。
スティーブ・ジョブズが、
「全財産をはたいてでも、ランチのひと時をすごしたい人」
と言ったことは有名ですが、わたしもしびれさせられたひとりです。
まともに知ったのは高校の倫理の授業、その後、大学で哲学を専攻し、就職やその後のキャリアプランに悩むようになった責任の一端は彼にあります(笑)
何を選ぶにしても、ソクラテスの次元でいう
「生きるとはどういうことか? よく生きるとはどういうことか?」
が頭から離れないのですから、サラリーマン時代も独立してからも、まあ、その自分の道には右往左往してきました。
大学時代にギリシャ哲学も学んだことにより、ギリシャ・アテネには死ぬまでに一度は行きたいと思っていました。
そして2017年についに実現。
パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘に登り、頂上からソクラテスも見たであろうアテネの街を見下ろしながら、感動に打ち震えていました。
あのときのアテネの夕暮れの空の色は忘れません。
わたしは絶対死刑になりたくないですし、なるようなこともしないですし、できれば普段も憎しみも敵意ももたれたくないですが、どっか決定的なここぞというときには、ソクラテスのようにありたいとは思っています。
ソクラテスおじさん、実際に生で会ったら、面倒くさいんでしょうね~
でも彼もいうように、魂が不死だとしたら冥府で過去の偉人たちと思いっきり遠慮なく問答できるそうですから、わたしもソクラテスとの問答を楽しみにしておきたいと思います。
「ただ生きるのではない。よく生きる。」
ソクラテスは、今もなお、わたしたちの街を飄々とうろついているのです。
※写真は夜のアクロポリスの丘とパルテノン神殿
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執筆者紹介
オフィスオントロジー
代表 友成治由
人と組織の可能性と創造性を引き出すメンター
人と会社を伸ばすメンタリングの専門家
10年超にわたる起業家育成や変革人財育成経験から得た実践知と、意欲心理学によチェンジメンタリングで人が本来持っている意欲、可能性、価値を引き出す。
主体性/リーダーシップ開発、メンター育成、メンター制度構築、チーム活性化などを支援。
哲学存在論専攻。
宮崎県出身。今もなまりはとれない。
経営メディア『経営プロ』にて執筆コラム掲載。
コラム「メンタリングで人や組織の可能性を引き出す」など
おまけ
この空の色!
アクロポリスの丘すぐ下のレストランの屋上にて。
ここでビールとギリシャワイン。
最高でしょ。
また行きたい。
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