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人を育成するリーダー必須の「信じる」4レベル

この記事は、もともとは一般の対人支援業の方々のために書いたものです。

NOTEにて、一般向け記事公開中です。

(https://note.com/eye_of_me/n/ndcdf9066d213)

 

しかしあらためて読めば読むほど、経営者やリーダーにこそ読んで欲しい。

ですので、こちらのホームページにもそのまま転載します。

 

「信じる」は、真のリーダーにとって、必須修得事項です。

目次

「信じる」の4つのレベル

信じるとは何か。

これに指針がもたらされたとき、ずいぶんと生きるのが「楽」になりました。

また、人がわたしの言葉で、元気になってくれるようになりました。



職業は何であれ、あなたが多少でも人と関わりある仕事をされているのであれば、参考になるかもしれません。



わたしの仕事は、人をやる気にする仕事です。

具体的には組織一体化や社員育成のコンサルティングや研修講師。

他にも「夢」を事業としようとするひとたちの起業支援をしています。



わたしと関わる方たち、みんな輝いてほしい。



すごく臭い言葉かもしれません。



でもね、実際にそんな人たちに出逢っていくんです。

その人自身の力なのに、「ありがとう」なんて言ってくれて、バンバン輝いていく。

もう今では、てらいも恥ずかしげもなく、「輝いてほしい」。

そう思います。



ではどうすれば、その人が輝くのか。

もちろん今も常に迷ったり悩んだりがわたしの中でも実情。



とはいえ学び、経験を経るうちに掴んできて、言語化できることもあります。

さまざまな要因がありますが、最重要要因のひとつとして、「信じる」があることは間違いありません。

 

しかし、この「信じる」というのが、これまた難しい。

 

そもそも「信じる」とは何か。

何をもって「信じる」と言えるのか。



「信じる」という言葉は、4つのレベルに分けることができます。



ひとつは「信用」

ふたつは「信頼」

みっつめは「信じることそのもの」

よっつめは「最後の信じる」


信じる度合いの弱い順に並べています。

「信用」とは何か

ひとつめは「信用」。



「信用」というのは、具体的な行為や業績をたしかなものと思って用いることです。



「信用を得る」「信用を失う」「お店の信用に傷がつく」



具体的な証拠があって、その証拠にふさわしいおこないを今後もしてくれるだろうという期待があるわけですね。



逆に言えばその証拠が偽りだった時に「信用を失う」わけであり、具体的な証拠への疑いがつねに付きまとう時点で、信じる度合いは低い。



具体的な証拠とは、過去の証拠でありますので、「信用」とは相手の過去を信じることと言えます。



goo辞書によると以下のように記載されていました。

1 確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を―する」

2 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「―を得る」「―を失う」「―の置けない人物」「店の―に傷がつく」

3 現在の給付に対して、後日にその反対給付を行うことを認めること。当事者間に設定される債権・債務の関係。「―貸付」

「信頼」とは何か

「信頼」はgoo辞書ではこう書かれていました。

(スル)信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。「―できる人物」「両親の―にこたえる」「医学を―する」

「信頼」は「信用」よりも信じる度合いが強い。



「信頼」は、もし具体的証拠が相手に無くても、その人の人柄などから期待通りのおこないをしてくれるだろうと思うことです。
「わたしは部下を信頼している」「親の信頼にこたえる」など使いますね。



信頼している場合、もしその人がすぐに期待そのもの結果を出せなくても、「なんとかしてくれるだろう」という、その人への努力や頑張りへの期待も込められています。むしろこちらへの期待の方が大きい。



部下を信頼していると想像してください。

たとえすぐには結果を出せなかったとしても、それで信頼を失うことはありません。

でもその部下がいつもさぼって、結果を出そうとやる気もなく努力も何もしていないことがわかったときには、「信頼を失う」はめになります。



具体的な証拠が無くても成り立つ分、信じる度合いは強いと言えます。



「仮にうまくいかなくても、また、将来不測の事態があっても、なんとかしようと努力してくれるだろう」というのは、未来に関してのことですので、「信頼」とは相手の未来を信じることと言えます。



一般的に社会生活を営む上では、このふたつが99%を占めます。

まず具体的な行動や業績によって「信用」を得ることが大切、

そのうえで、人柄を高めることで、「信頼」を得ることが大切になりますね。

「信用」や「信頼」で人は輝くのか?

さて、今回のテーマは「人が輝くにはどうしたらいいのか」。

そのための「信じる」って何かでした。

別の視点でいえば、相手を「信用」し、「信頼」すればそのひとは輝くのでしょうか?



こんなときは、「じぶんだったらどうなのか?」を考えると考えやすくなります。



あなたは、人から「信用」されて「信頼」すれば自分は輝くと思いますか?



「信用」されたとしましょう。

たしかに、信用されると社会生活を送ることができます。

仕事であれば、その仕事を続けることができます。

ほっと安心もします。



しかし「輝く」かどうかと言われたら、どうも心もとない。

最低限のスタートラインに立ったという感覚ではないでしょうか。

「輝いている」という感覚をもつためには、もっと進む必要がありそうです。



では「信頼」されたらどうか?

信頼されるとうれしいですよね。

過去の行為や業績だけでなく、自分自身を認めてくれている感覚があります。

未熟な自分であっても、「こいつならなんとかしてくれる」という期待をビンビンと感じます。

だったら、その期待にこたえてやろうという心意気を感じることができます。

うん、「信頼」されると気持ちが前向きになります。

輝くことができそうです!



しかし、信頼にも一抹の不安があることは隠しきれません。

「信頼を裏切る/裏切られる」という言葉の通り、「信頼」とは絶対的なものではないからです。



「信頼」は確かに信じる度合いの強いものです。

しかしそれであっても、「相手の人柄」など信じるに足るある種の根拠があります。

その根拠が失われたら、信頼は崩れ去ってしまいます。



ですので、信頼される側としても、信頼されるためには自分の人柄をつねに相手に対して証明し続けなければなりません。相手の基準に合わせ続けなければならないわけです。

したがって「信頼」は行き過ぎると、重荷にもなりなにもかも放り出しくもなります。



このあたりちょっと嫌味っぽく言いましたが、もちろん社会生活の99%は「信用」と「信頼」で成り立っています。すごく大事です。

わたし自身「信用」を得たいと生きてきましたし、「信頼」されると期待以上に応えるべくめちゃくりゃ張り切ります。

「信用」と「信頼」は、社会生活の要であるのは間違いありません。



そのうえで、それでも「人が輝く」ためにはもう一歩強い信じる度合いが必要だというのが、この記事の主張です。



それが、三つ目の「信じることそのもの」

なぜ裏切られるとつらいのか?

もし、信じるにたる何ものがなくても、それでも信じることができるかどうか。



ここが問われています。



もし、「信用」して「信頼」もして仕事を任せた人が、あるときすべてを放り出して、あなたに損害を与えて夜逃げした場合でも、その後もその人を信じられるでしょうか?



利害関係だけの人であれば「NO」になりそうです。

信用でも信頼でも、その期待するところが利益であるわけですから、それが得られない時点で、信じる根拠は失われています。利害関係で人間を考える、人間は「信用」「信頼」レベルまでしか経験できない生き物と言えます。



しかしわたしたちは、利害関係だけではない人間関係があることを知っています。



親が子を信じるというとき、たとえその子がとんでもない極罪を犯したとしても、その子を信じ続けることがありうることを知っています。

その際罪を犯していないことを信じている(信用、信頼)のではありません。

罪は罪として犯している。そんなことは知っている。でも、何かを信じています。



もちろん同じ状況で、その子のことを信じられなくなる親もいるでしょう。

その良し悪しについては、テーマではないので省きます。



テーマは、「信じるとは何か」です。

前者はなぜ信じることができて、後者はなぜ信じることができなかったのでしょうか。

いくら信じても、最後まで子は裏切り続けるかもしれません。

感謝の言葉を述べることもなく、悔恨の言葉を述べることもないかもしれません。



「それでも、信じる」



というとき、何を信じているのでしょうか?



指針となったのはある言葉です。

それがジャン・ポール・サルトル。

戦後のフランスに旋風を起こした実存哲学者です。

ノーベル文学賞も受賞しているみたいですね。



正直、この言葉は20代の頃に断片しか見ていないので出典はわかりません。

わたしにとっては断片だけで十分でして、その後の指針になっています。



なぜ人は「裏切られた」と感じるのか。

それは、信じるか信じないかの基準が、相手側にあるからです。



具体的な過去の証拠であったり、人柄であったり、相手への期待であったり。

相手に基準を求めています。

だから相手にそれが失われたときは、信じるという思いも同時に消えてしまいます。



そんなとき、人は苦しみます。



「あの人を信じていたのに。」



そう言って、裏切られた感情とともに相手に怒りをぶつけます。

感情を表に出すことは大切ですが、苦しい想いはできれば抱えたくないものですし、そんなつらい感情で自分自身が壊れてしまったら元も子もありません。



この苦しみの感情の正体は、自分の思い通りにならなかったことから来ています。

自分自身の期待を、”勝手に”相手に投影していたからこそ、苦しみます。



本当のところ、過去の証拠も人柄も、それを信じると決めたのは自分自身です。

自分が何かを相手に期待した。自分自身を納得させるために「信じた」。


それが傷ついたことが許せない、苦しい。

裏切りや怒りの感情の苦しみの正体とは、自尊心の傷つきなのですね。

「信じるとは、…である」

サルトルはこう言っていました。


「信じるとは、自分を信じることである」


信じるというのは、本質的には、


「相手を信じるという自分自身を信じる」


ことを言います。


信用も信頼もそう言った意味では、自分を信じる度合いが低い「信じる」です。

だから信じるに足る担保を相手に求めてしまう。



一方、たとえ他人の目から見たら信用・信頼を裏切られたように見えても、それでも相手を信じているとき、それは「自分自身」を信じているのですね。



ちょっと考えてみると、それほど難しく考えなくても、日常で体験していることでもあります。

自分の心に余裕があるときは、多少期待通りでなくても、とくに感情は逆立ちません。

相手にすこしばかり振り回されても相手を受け入れることができるほど、自分を信じているからです。



たとえばわたしも仕事の相談にのったり、教えたりすることがよくあります。

ある助言をすることもある。相手もその場ではやる気で頑張ると言っている。



でも蓋を開けてみれば何もやっていなかった。

もちろん成果も上がっていない。

そんなことは、ザラにあります。



かつてはそんなとき、相手側の裏切りのようにも感じていました。

そうして相手が悪いと言いながら、むかつきが続いたりもしていました。



しかしサルトルの言葉を聞いてからは、様子が違ってきました。



同じ場面に遭遇しても、逆に相手を思いやることもできるようになったのです。

そして怒り続けたり、逆に「信じた自分が悪い」なんて自分を責めることもなくなりました。



自分を信じようと決めたとき、相手に振り回されることがなくなったからです。



もちろん正確に言えば、なくなったではなく、少なくなった、です

人間ですから、今もさまざまな感情は起こります。

そう言った意味では、死ぬまで修行中ですね。



しかし、「このひとは信じていたけど、期待通りではないな」と思ったときも、「それでも相手を信じたいか?」という問いを自分に向けてするようになりました。



そのうえでそれが「YES」であるならば、もう相手から何の見返りがなくても信じ続けるのみです。目先のことにはとらわれません。

もしそれが「NO」ならば、それがその時のわたしの率直な気持ちです。

相手も自分も責めることなく、受け入れて、あたらしい方向へ向かうのみです。

最初にやること

わたしは人を応援しようと決めたときは、まず自分自身を確認します。

相手がお客様であれ、個人的な付き合いであれ、「自分自身の“信じる”が本当かどうか」を確認します。



そうして、もし、



「自分はこの人を信じよう。信じて応援しよう」



と決めたときには、一生ものにすると決めています。

わたしも44年は生きてきましたので、人生、山も谷もあることくらいはわかるようになました。

ですので、相手が短期的にうまくいかないところを見ても、それほど動揺もしない。もしかして生涯かかってうまくいかないこともあるかもしれません。それでも動揺しない。

そのように決めています。



見返りを求めて信じているのではなく、自分が信じようと思って信じているからです。

相手がどんな状況であろうと、同じように付き合い、同じようにひとりの人間として応援し続けようと思っています。





もちろん、自分を信じるといっても、そんな自分には究極、根拠はありません。

自分がこの世に生きている、それってすばらしいよね。だから信じるんだ。

そう自分自身の存在がすばらしいことを無条件に信じるという「賭け」でもあります。



「信じる」には、本来根拠のないものを「それでも信じる」という、「飛び越え」の感覚が本質にあります。



「信じるとは、自分を信じることである」



この言葉は、根拠がない中でも人生を前に進めなければならないときがある。

そんなことを教えてくれました。



そのように決めてからですね。接する人たちに自分の言葉が伝わるようになり、その方自身もみずから輝くようになったのは。



人は自分を信じてくれる人がたったひとりいるだけで、生きる勇気を得られる。



これは、人生の中でわたしが得た真実の一つです。



わたし自身もそうやって信じてくれる人たちがいるから、なんとかやってこられています。

とかく人の世は…

「最後の信じる」は、いわゆる大きなものの世界です。

信仰心というのか宗教心というのか。

はたまた別の言葉なのか。



胡散臭いかもしれないし、こちらの方が本物かもしれないし。

いずれにしても、このあたりの謎を自分なりに解き明かす場合、今日見てきた「信用」、「信頼」、「自分自身を信じる」を念頭に置くのは有益だと思います。



でも、今回は手に余るテーマなので省きますね。





とかく、「信じる」ひとつ考え抜くだけでも、ずいぶん学べることはあるものです。



すべての人間関係や物事を疑い続けて生きると、しんどくてしょうがない。

でも何事も無条件に信じていると、危なくてしょうがない。

かといって「その中間がいいのさ」なんてうそぶく生き方では、何もつかめない。



どんなときに、どこまで信じるのか、何を信じるのか。



やっぱり一生のテーマになりそうです。

執筆者紹介

オフィスオントロジー
代表 友成治由

本質から人と組織が可能性を拓く支援。

哲学「存在論」専攻。
自立的な本質的意欲を引き出す意欲心理学を専門とする。
元上場実現企業のトップコンサルティング営業。
本質にまっすぐに「意欲と価値」を見つめ、組織一体化、人材育成・人材開発、価値創造等、もっている本来の力を引き出すことで人と組織の可能性を拓く専門コンサルティング、研修、個人セッション等で支援

宮崎県出身。今もなまりはとれない。

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