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人材育成/人材開発

社員が「変わる」人財変革法の根幹2/2

「よく生きたい」にすなおになろう。

 

この一言のフレーズには、組織と人をがらりと変えるほどの力があります。

前回、なぜそうなのかについてお話してきました。

 

今回はその続きになります。

 

「よく生きたい」を大切にすることで、組織も人も大いに変わる可能性があることはわかった。ではどうすれば、社員達を「よく生きたい」へ導けるのか。

 

よりいえば、どうすれば社員達を変えることができるのか。

 

その方針について、わたしが掴んできたことをお話しますね。

今回も前回と同じく、自由にお話いたします。

(本来、自由にお話する方が力を発揮するタイプです(^^))

 

ぜひ前回の話も合わせてお聴きください。

そうでないと本日の話は、ツマラナイ、あなたのお役に立たないお話になってしまいます。

目次

変わらない現実

10年以上、「どうすれば人が変わるのか?」をテーマにしてきました。

やる気がみえなかった人が、やる気にあふれる。
一向に成長しなかった人が、どんどん成長して伸びていく。
ウンともスンとも心が動かなかった人が、自ら自発的に動き出す。
困難を避けていた人が、困難にみずから挑戦していく。
よそよそしくギスギスしていたものが、親しみで信頼に溢れる関係になる。

一人一人がより意欲的になり、より信頼関係をもってみなが協力し合う。
そんな風に変化していくためにはどうすればいいのか。

前回もお話したように、元のサラリーマン生活やメンタルケアの経験を経ながら、経営者やその社員たち、起業家、事業家などを支援してきました。

人の問題は多くの会社が悩んでらっしゃいます。

そのために、

理念浸透、マネジメント、コミュニケーション方法、講演会、風土作り、社員研修、一対一面談、グループワーク、自己学習や自己啓発推進、、、

などなどさまざまな方策をして、今の状況を変えようと日々奮闘してらっしゃいます。

わたしも支援する一人として日々もがいてきました。
わたしが何かを言っても、まったく相手に響かない。
それどころか、かえって心を閉ざして、御用御免で拒否されることもありました。

また「これは相手に届いている。わたしを信頼してくれている」そう思って、喜んでいたところ、それは相手にとってわたしへの依存を生んでしまい、一人立ちへの意欲を持たせられずに長く苦しませてしまった。そんな後悔もあります。

自分でもそういったことを繰り返し、また、他の方のやり方、在り方にも多数接していく中で、

「コレでは人は変わらないのだ」

という自己反省とともに、痛感するようになりました。

世間には多数の組織変革論、企業変革論、人財変革、人材育成論があります。
多くのマネジメント、リーダーシップ研修でも日々学習されていますよね。

しかし、率直にいえば(ぶっちゃけて言えば)、それらを学ぶことと「人を変える力を持つこと」は全く別物だとわかってきたのです。

「ソレでは人は変わらない」

どんなにその人が、人材育成/組織変革コンサルタントや学者などの肩書を持っていても、その専門的知識と「人を変える力」は、必ずしもリンクしないことがわかってきました。

逆言えば、仮に知識は限られていたとしても、その人がいるだけでそこにいる人みんながやる気になり、協力し合うようになる。そんな人たちとも出会ってきました。

この違いは、何なんだ。
ずっと悩み、考え続けてきました。

もちろん今も道半ばですので、究極的にいえば死ぬまで精進は続くでしょう。
とはいえ、今確信として言えるところは言語化していきたいと思います。

コレでは変わらない

一見、変わりそうで、コレでは人は変わらない、というものも挙げてみますね。

上から目線

まずは、「上から」の態度
「上から」というのは、上から目線で話すような態度です。

かみ砕いて言えば、
「わたしは正しい、あなたは間違っている、だからわたしが教えてやる」
こういった態度ですね。
もうちょっと言えば、「わたしがあなたを変えてやる」という態度です。

新人や初心者に対してこのような「上から」の態度を取ることで、やる気を注入しようという人がまれにいますが、反発と不信を生むだけです。

人がそんな態度でもいう事を聞くとしたら、単に力関係で「従う」だけです。
心からの理解や共感、信頼を感じたて「変わった」わけではないのですね。

ですので、ある程度仕事ができたり状況がわかってきたりしたら、「上から」の人に対しては、無視か反発を示すようになります。

いやいや、今どきこんな人は少ないでしょ、と思われるかもしれませんが、そこにこそ穴があるんですね。

人間って、ついつい傲慢になってしまうものだなあと、自分をみてそう思います。
自分がわかっている、と思っていると無意識のうちにやりがち。わたしもいつもこの部分は反省しています。講師として教える立場が多いのですから、ちょっと油断すると上からの態度になってしまうんですね。

もちろんときには強く、しっかりと伝えないといけないことはあります。
しかし、同じ目線で本当に相手を想って伝えるのか、「上から目線」で伝えるのか。
微妙なところですが、どちらで伝えられているのかは相手にはわかるのですね。

わたしたちにはついやってしまう人間的な弱さがある。
この弱さを認識してこそ、真の関係を結ぶことができる。

あとにも関連しますが、ここ、かなり重要なポイントです。

道徳論/正論/一般論

わたしたち日本人は「論語」が大好きですよね。
昨年は渋沢栄一が大河ドラマの主人公でしたし、お札の人物としてもその著書「論語と算盤」がクローズアップされています。

わたしも「論語」は、それこそ高校時代から読んでいました。
ここに人間として大切なことがあるのではないか。
そんな気持ちで、当時なけなしのお小遣いで手が震えながらかった「論語」は、今でも書棚に大切にあり、折に触れて見返しています。

志のある経営者やビジネスマンも多く愛読したり、学び始めたりしています。

しかし、しかしです。

論語を学んだ経営者や上司が、その「論語」の言葉を社員に教えたとして、社員が変わったことはあるでしょうか?

また多くの研修で、人の道、道徳論を教えて伝えていますが、それで社員が変わったことはあるでしょうか?

ほとんどの場合、その場限りになって、その時間が終わった直後からもう元に戻ってしまったなんてことありませんか?

結論から言えば、人は道徳論で変わらないのですね。
もちろん知識はつきます。
しかし、知識がつくことと、人が変わることは別ものです。

わたしも長年さまざまな学びをしてきた方だと思いますから、道徳論の大切さや中身の素晴らしさも多少はわかっているつもりです。

しかし、それをまだ知らない人に伝えた場合、その道徳論を伝えただけでは変わらないことに愕然としました。

正論も同じです。

ビジネスでも人生でも、「正論」と言われているものがあります。
しかし道徳論と同じように、正論では人は変わりません。
一般論も同様ですね。

なぜ「道徳論」、「正論」「一般論」では変わらないのか?

その中身が間違っているからではないのですね。

正確に言えば、道徳論、正論、一般論だけでは変わらないと言った方がいいでしょう。

人はその中身ではなく、それが自分の「よく生きたい」に合致した時にはじめて、中身を受け容れようとするのです。

経営者やビジネスマンがみずから論語を学ぶ時とは、自分自身のこれからの人生や仕事にとって、論語が必要だと感じるからですよね。
だからこそ、論語の素晴らしい内容の一言一句が染みてきます。

しかし自分自身に何もないときに、道徳論でも正論でも一般論でも、聞いてもどうでしょうか。

「当たり前のことを言っている」
「はいはい、そうですね。で?」
「そんなことわかっている」

こんな反応になりませんか?

多くの方は、こんな図式で考えてしまっています。

「道徳的に良いこと、正しいこと⇒人を変える力がある」

でも、この図式そのものが、実は人間的な現実とはズレているんですね。

人間の心を素直に見ていくと本来の図式はこうなります。

「自分が変わりたいと思う⇒変えてくれる道徳特論や正しいことを求める」

です。

道徳論でも正論でも、それが機能するのはあくまでも、受け容れる人間側にその機運ができているときです。

大切なのは、人間の心のありようが先であり主役であって、道徳論・正論・一般論、つまり何を心に入れるかは後であり手段にすぎない、ということなんですね。

人を変えたい、変わって欲しいと願うとき、何よりも大切にしないといけないのは、相手の心であり、相手の心がまず「変わりたい」と動いてはじめて、さまざまなことを吸収し始めるのです。

熱く説得する/熱く元気づける

これは大切な方法のひとつです。
これによって大いに元気づけられて、変わって、イキイキとする方々は多いです。

ならばこの方法を「コレじゃ変わらない」に入れなくてもいいのですが、あえて入れました。
というのも、やはりコレだけでは、大半の人は変わらないからです。

わたしは熱血な感じではないですが、とはいえ熱がこもって熱く話すこともよくあります。
そんな中、熱く話せばいいってものじゃないことも多々経験しました。

人の熱というのはとても大切な要素です。
むしろ、人を変えたい、変わって欲しいという場合に熱が無いのは論外だと思っています。

しかしながら、熱はともすると「自分だけの熱」になりがちなのですね。
自分は熱がこもっている。
でも相手は、熱がこもるほど逆に冷めてしまうこともよくあります。

ここでも重要なのが、相手の心の在りようです。

熱がこもればこもるほど相手も熱くさせるときと言うのは、相手自身の中に「よく生きたい」が芽生えているとき、言い換えれば熱を欲しているときです。

その熱の芽生え、心の温度がほんのわずかでも高くなろうとしているときに、自分の熱を伝えると相手も受け取ってくれるようになります。
そうでないときというのは、まだ熱を受け取れる状態ではないのですね。

熱を受け取れない要因としては、一つには相手自身の「よく生きたい」に沿っていないときです。そんなときの熱い伝え方は「押しつけ、やらされ」にしか聞こえません。

だから熱を伝えるためには、つねに相手の「よく生きたい」への想いを持っておく必要があります。

そしてもう一つの要因は、「心の抵抗」です。
人は、超人でない限りは、どんな人でも不安や怖れをもっています。
この「抵抗」がわずかでも溶けない限りは、人は相手の言葉を受け取ることができません。

その「抵抗」とは何かをよく理解してあげながら、熱を伝えることが大切になります。

どれだけ熱く

「君ならできるよ」

と語っても、「できるよ」に不安しか感じていなかったらどうしようも心は動かないのですね。かえって熱く語れれば語るほど、自信を亡くしてしまいます。
だから、そんなときは、たとえば
「わたしも一緒にいるよ」
「こういう方法もあるよ」
「失敗しても大丈夫なんだよ」

のような、不安や怖れを思いやることがどうしても必要です。
それによって、心の抵抗を少し溶かし、あなたの熱さを受け容れる道ができてきます。

発見

「人が変わる、人を変える」というテーマで取り組んできて、わたしは大きな発見をしました。

この発見は、心の本質に関することです。
人の心から変わって、動いて、仕事や人生が変わる時、この心の本質に思いをいたすことが大切だと、年々痛感しています。

言われてみればシンプルです。
ただこれを意識しながら、人材変革、人財育成に取り組むと自分自身も心への理解が深まり、結果として、いい形で自然で力強く導くことができることがわかってきました。

きっとあなたのお役にも立てるかと思います。

発見のひとつとしては、前回からお話していること。
それは、誰しもが「よく生きたい」を持っていることです。

そしてその「よく生きたい」をより詳しく見ていくと、そこには、

本当はより願いを叶えたいという、いわば広がる心の動き。
そしていまの自分を保ちつづける、いわば守る心の動き。

の両方が、同時に存在していることが発見でした。

人はもちろん成長したい、前向きに生き、現実を変えていきたい思いがあります。
「同時に」、でもそれは嫌だ、不安だ、怖い、今の自分を保ちたい。
両方ともを持っているのです。

そして、両方共が「よく生きたい」を構成する大切な要素だとわかったのです。

今の社会では、前向きで、意欲的で、どんどん行動することをプラスの心とし、そうでない、怖れ、不安、しり込みなどをマイナスの心としています。

だからマイナスの心のままでいることは、悪いことであり、撲滅すべきことであるとしています。

結果、マイナスの心を持っている人は、矯正され、指導され、できなかったら「ダメなやつ」との評価を押されるという構図になっています。

ところがこの構図は、一見もっともらしい構図ですが、人の心の現実にはそっていないものだったのです。

事実は、広がる心の動きも、守る心の動きも、心にとってはどちらも大切な要素なのです。
どちらもあるからこそ、わたしたちは生きていけるとさえ言えます。

広がる心は、現状を変えたり、目的を達成したりして自分の人生を豊かにしてくれます。
一方守る心は、自分を大切に保存し、ひとつひとつ安全に確かめながら、自分の人生を確実にしてくれます。

すこし仮説的な大きな話をすると、どちらの動きもわたしたちにとって進化の過程で必要なものであり、だからこそここまで生き延びてきたのでしょう。

全体として、「よく生きたい」。
後悔の無い、充実した人生を生きたい。
そのためには、アクセルのような心も必要ですし、ブレーキのような心も必要だったのです。
どちらも人間にとって大切、欠かせないものなのですね。

人間の心って、とんでもなく強く、ものすごい可能性を持っている。
同時に、どこまでも繊細で弱く、怖れや不安さえも大切に自分のために抱えている。

この発見は、わたしにとって人との接し方への革命的なことでした。

自然な人間の思いやりの復権

広い心-強い心も持っている。
同時に、守る心-弱い心も持っている。
でもどの心も、「よく生きたい」ために備えている心。

だから人間が変わる時には、広い心-強い心だけではなく、守る心-弱い心も同時に理解して見すえることではじめて、人は「よく生きたい」へ向かって、どんどん芽を伸ばしていく。

それが実感できるようになると、かえって昔ながらの、人間が自然につたえてきたことの大切さも身に染みるようになったのです。

そう、

思いやりをもとう
弱い人がいたら助けよう
勇気を励まそう
一緒に喜ぼう、いっしょに悲しもう
仲間を大切にしよう

そんな、自然な人間の営みが人を本当に変えていくことがわかったのです

そんなに大上段のお説教は、いらないとは言いませんが、ここぞの時だけで十分です。

社員に思いやりを持って接すれば、思いやりで返してくれます。
弱っている社員の弱さも受け止めながら励ませば、また立ち上がります。
ひとりにしないで、みんなで支え合えば、仲間のために会社のために協力してくれます。

ビジネスは人を幸せにする営み、とよく言われます。
けど、その維持発展には収益や効率性も必要でしょう。
とはいえ、やっぱり「目的は?」と言われたら、「人を幸せにするため」と答えるはずです。

そう、ならば、その本来の目的に忠実になろうよ、というわけなんですね。
そうすれば、誰もがその会社のためにイキイキと自ら働きます。
結果、収益も効率性も大いに上がるでしょう。

わたしもタイトルに、組織変革や人財変革というキーワードを入れましたが、まあ、それは立派にみせるためです、

すなおな言葉で言えば、

本来の人が死汗になるにすなおに、よく生きるようにすなおになろうよ。

と、そのようなタイトルであり、メッセージなんですね。

人財変革、組織変革を成功させるために

人財変革、組織変革を成功させるならば、もういちど「人間」に立ち戻りませんか?
そのためには、人間の「よく生きたい」を大切にしてみませんか?

これが前回と今回からのメッセージです。

あえてもうひとついえば、人の心が変わりたくなる環境づくりというハード的な側面も重要なのですが、その環境づくりの基礎も「人間の心」に沿っていることが大前提です。


今回、「人が変わる、人を変える」と使ってきました。
イメージがわかりやすいので使っていますが、でも本当はこの言い回しは、人間にとって失礼な言葉だと認識しています。

人は他人から変えられたくないし、自分自身で成長し、変わっていきたいものです。
なぜならば、「よく生きたい」のはだれでもなく自分自身だから。

そういった意味で、わたしは、「人が変わる、人を変える」と言うときに、こんなイメージをもっています。

だれしもの心が、可能性の種である。
本来、まっすぐと芽を出して、すくすくと育って大樹になる種である。

わたしの仕事は、その種が芽を出し、生長しまっすぐ伸びていくのを、ときには日光になり雨水になり、肥料になりながら、その種自身の「よく生きたい力」をサポートするだけであると。

ここまでお読みならば、この記事も面白くなるはずですので、ぜひご覧ください。「唯識仏教。人を目覚めさせる人材育成最古の深層心理学」


「よく生きたい」

せっかく生まれたこの命、自分も社員や仲間や出会う人たちにとっても、誰もが互いに思いやりを持ちながら後悔しないように思い切り生きることができたらいいですね。

わたし自身の「よく生きたい」こととして、大切に伝え続けたいと思います。

あなたの「よく生きたい」は何ですか?

執筆者紹介

オフィスオントロジー
代表 友成治由

人と組織の可能性と創造性を引き出すメンター
人と会社を伸ばすメンタリングの専門家

10年超にわたる起業家育成や変革人財育成経験から得た実践知と、意欲心理学によるチェンジメンタリングで人が本来持っている意欲、可能性、価値を引き出す。
主体性/リーダーシップ開発、メンター育成、メンター制度構築、チーム活性化などを支援。

哲学存在論専攻。
宮崎県出身。今もなまりはとれない。

経営メディア『経営プロ』にて執筆コラム掲載。
コラム「メンタリングで人や組織の可能性を引き出す」など

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